詩の味わい

このページは、無名詩人 大手礼二郎(故人)の詩と、古今東西にわたる多くの詩人の有名詩を歌っていくページです。大手礼二郎詩集「風の思惑」と未刊の第二詩集以後、補遺、その他、管理人が好きな詩を中心に紹介して行きます。

2010年10月31日日曜日

ゲーテ 心やさしき人々に




「心やさしき人々に」

詩人は沈黙することを好まない。
あまたの人々に自分を見せようとする。
賞賛と非難とは覚悟の前だ!
だれも散文でざんげするのは好まないが、
詩神の静かな森の中でわれわれはしげしげと
バラの花かげに隠れて、こっそり心を打ち明ける。

わたしが迷い、努め、
悩み、生きたことのくさぐさが、
ここでは花たばをなす花に過ぎない。
老いも若さも、
あやまちも徳も、
歌ともなれば、捨て難く見える。


訳者 高橋健二がこの文庫の「序」にかえて掲げたゲーテの詩。

古本屋の50円棚で、この扉裏のまえがきを読んで、感動して買った時の事を思いだす。斎藤さんの本でもね↓
(斎藤さんいたら連絡ください、さすがにいないか) 




リルケ 

もろもろの事物のうえに張られている 
成長する輪のなかで私は私の生を生きている 
たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう 
でも 私はそれを試みたいと思っている 

私は神を 太古の塔をめぐり 
もう千年もめぐっているが 
まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか 
それとも大いなる歌なのかを    



ドイツ語詩人、リルケ(1875-1926)の詩。 
私は「この成長する輪」を、職業柄、らせん状のDNAであったり、たんぱく質であったりするイメージでこれまで捉えてきた。ある人はこれらを膨張する宇宙や、銀河のように捉えるかもしれない。 
どういう理由か、この詩は私にある癒しを与えた。 

なお、ワトソン・クリックによるDNA二重らせんの発見は1953年である。 

2010年10月30日土曜日

大手礼二郎 秋像

白じろと
ジルベルの流れの中に
くさわけて そっとたつもの


おいしげる しじまの奥に
故なくて そっとたつもの


その末に 星のしたたり
その本に すだく虫の音


一つつらなる
木がくれの 時のおとない
身にしみて そっとたつもの


白じろと
ジルベルの流れの中に
おののきて そっとたつもの



大手礼二郎「風の思惑」収録

谷川俊太郎 空の青さをみつめていると



空の青さを見つめていると 
私に帰るところがあるような気がする 
だが雲を通ってきた明るさは 
もはや空へは帰ってゆかない 

陽は絶えず豪華に捨てている 
夜になっても私達は拾うのに忙しい 
人はすべていやしい生れなので 
樹のように豊かに休むことがない 

窓があふれたものを切りとっている 
私は宇宙以外の部屋を欲しない 
そのため私は人と不和になる 

在ることは空間や時間を傷つけることだ 
そして痛みがむしろ私を責める 
私が去ると私の健康が戻ってくるだろう 



谷川俊太郎 「六十二のソネット 41」 


・・・これは上手いな。「二十億光年の孤独」と並んで好きな詩。 



(写真はアメリカ西海岸 San Diego の乾いた空 凄い青だった・・・。2009年3月) 



さとう宗幸 青葉城恋唄


これはアマチュアの方が作詞して、さとう宗幸がDJをつとめるラジオ番組に応募した詩らしい。 
正確には「歌詞」になるが、それにしてもきれいな詩であると思う。 


広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず 
早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳 

 季節[とき]はめぐり また夏が来て 
 あの日とおなじ流れの岸 
 瀬音ゆかしき杜の都 あの人はもういない 

七夕の飾りは揺れて 想い出は帰らず 
夜空輝く星に 願いをこめた君の囁き 

 季節はめぐり また夏が来て 
 あの日とおなじ七夕祭り 
 葉ずれさやけき杜の都 
 あの人はもういない 

青葉通り薫る葉緑 想い出は帰らず 
樹かげこぼれる灯に 濡れていた君の頬 

 季節はめぐり また夏が来て 
 あの日とおなじ通りの角 
 吹く風やさしき杜の都 
 あの人はもういない 

 季節はめぐり また夏が来て 
 あの日とおなじ流れの岸 
 瀬音ゆかしき杜の都 あの人はもういない 


Youtube↓
http://www.youtube.com/watch?v=tZTqf4n07hw&feature=related


青葉城恋唄は仙台のご当地ソングとしてあまりにも有名だが、他に 
このような地方の有名ソングってなにがあるだろう? 
私の母はこの歌が好きだったので、このメロディを聴くと母に手を連れられて歩いた七夕祭りの日を歌詞通りに思い出します。 

さとう宗幸は私の出身高校、古川高校のOBであり、この歌は「第二校歌」といってもいい思い入れのある歌です。 
ちなみに、元横浜、マリナーズの大魔神佐々木は選手名鑑に持ち唄を「青葉城恋唄」と書いていました。

朝の食事   ジャック・プレヴェール

朝の食事   ジャック・プレヴェール、大岡信訳 


   あの人 コーヒーをついだ 

   茶椀のなかに 

   あの人 ミルクをいれた 

   コーヒー茶碗に 

   あの人 砂糖をおとした 

   ミルク・コーヒーに 

   小さなスプーンで 

   かきまわした 

   あの人 ミルク・コーヒーを飲んだ  

   それから茶碗を置いた 

   あたしにひとこともいわず 

   煙草に 

   火をつけた 

   煙草の煙を 

   輪にしてふかした 

   灰皿に 

   灰をおとした 

   あたしにひとこともいわず 

   あたしを一度も見ずに 

   あの人 たちあがった 

   あの人 

   帽子を頭にかぶった 

   あの人 

   レイン・コートを着た 

   雨が降っていたから 

   あの人 出て行った 

   雨の中へ 

   ひとことも話さず 

   あたしを一度も見ずに 

   そしてあたしは 

   頭を抱えた 

   それから 泣いた。 


これは男女の別離の場面の名詩なのですが、私なら最後の「頭を抱えた」の件の部分はいらないと判断するでしょう。 
その方が、片恋の人の気持ちにも通ずるような効果があるように思うからです。 
また、この詩は色々な翻訳がありますが、私はこの翻訳が一番だと思っています。 

ジャック・プレヴェールは映画「天井桟敷の人々」でも有名。マルチタレントの人ですね。




これが原文らしい。フランス語できます? 俺2回留年してるからな。。。 (-_-;)
机にうっ伏して泣きじゃくった、というくらいの感じでしょうかね? 
この詩の、淡々とした事実の列挙、この感じが好きなんです。この淡々とした感じが逆に、恋い焦がれる人との「距離」を実に遠い物にしているうまい作用があります。 


DEJEUNER DU MATIN 

Il a mis le café 
Dana la tasse 
Il a mis le lait 
Dans la tasse du café 
Il a mis le sucre 
Dans le café au lait 
Avec la petite cuiller 
Il a tourné 
Il a bu le café au lait 
Et il reposé la tasse 
Sans me parler 
Il a allumé 
Une cigarette 
Il a fait des ronds 
Avec la fumée 
Il a mis les cendres 
Dans la cendrier 
Sans me parler 
Sans me regarder 
Il s'est levé 
Il a mis 
Son chapeau sur la tête 
Il mis son manteau de pluie 
Parce qu'il pleuvait 
Et il est parti 
Sous la pluie 
Sans une parole 
Sans me regarder 
Et moij'ai pris 
Ma tête dans ma main 
Et j'ai pleuré. 

訳によってはわたし、あたし、僕、となってたりしますね。 
訳というのは難しくて、忠実に訳すよりもいい意味でいい加減に訳した方が、 
名訳になったりしますね。中也の訳なんてその典型でしょう。 
詩は誰がどのように読んでもイメージできるようなのが私は好きです。 
そういう意味では、主語は「わたし」としたほうがいいのかも。


2010年10月7日木曜日

小景異情(二)  室生犀星

大手礼二郎が敬愛したという室生犀星。
犀星の哀愁ある詩のリズムが、彼の東京での孤独な生活の慰めになったのでしょう。
それがこの有名な犀星の小景異情の(二) 

国語の時間に習った人も多いのでは? 



ふるさとは遠きにありて思ふもの 
そして悲しくうたふもの 
よしや 
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても 
帰るところにあるまじや 
ひとり都のゆふぐれに 
ふるさとおもひ涙ぐむ 
そのこころもて 
遠きみやこにかへらばや 
遠きみやこにかへらばや 

これには実は解釈が難しい所があるのですが、教科書に書かれている質問は、この詩はどこで書かれているか?というものでしょう。 
妥当に考えると、これは彼の田舎(金沢)で書かれている、と考えるのが自然のようです。 

東京での生活に疲れ果てて田舎(金沢)へ帰ったけれども、 
田舎でも彼への風当たりは強かった(犀星は妾の子ということで田舎では差別に苦しんだようです)。 

それで、この詩を歌ったのです。つまり、解釈すれば、 


ふるさとは遠くにあって思うものだ。 
そして悲しく歌うものだ。 
たとえ異土の乞食になったとしても、 
帰るところではない。 

「一人都の夕暮れに、故郷を思い涙ぐむ」 

その心をもって、 
遠いみやこ(東京)へ帰りたい。 
遠いみやこ(東京)へ帰りたい。 



「都」と「みやこ」の違いは、東京と金沢、と取る解釈もあるようですが、 
私が思うには、これはどちらも東京で、 
彼が理想としたみやこと、現実の都の違いを表現しているのだと思います。 

(写真は金沢の室生犀星記念館で購入した小景異情の復刻原稿と絵葉書)